ワーママのミカタ

ワーママの見方と味方。ハレてもケでも子育て。

女子という生きもの。環境を選択すること。

 

女子という生きもの
  
Twitterで知ったエッセイ
“「女の子」で死にたかった私に贈るエッセイ”@hamu_morishima をみて
学生時代、「女の子」として
生きたワタクシ、
そして、「女の子」として
生きているムスメにも
思いを馳せて、
やっぱり女子ってムズカシイ生き物だ。
だからこそ、選択できる環境が大事だなと
再確認した次第です。
 
エッセイのあらすじは、
小、中学校と女子特有のイジメ、
人間関係という生きづらさのなかで、
はじめて自分で環境を選択した高校進学。
 
そこから新しい世界では、
たくさんの選択肢があって
人生を楽しんでいる
今の自分がいるという
自分の体験をもとにまとめたエッセイです。
 
このエッセイでもでてくるくだりで、
進学校に進学して、
『友情のために仲間はずれを作る』子はぐっと減った」 
「友だちの選択肢はたくさんあった
というところにはげしく共感した次第です。
 
私の経験を振り返っても、
地域で荒れていた公立中学校から
県立の進学校に進学したときに、
何が一番おどろいたって、
非行とイジメがない日常でした。
 
偏差値がそこそこ高い集団にいけば、
個性や個のキャラクターを尊重する
雰囲気があります。
 
よくいえば尊重、悪く言えば放任、
というのか、とにかく、
イジメのような吊るし上げようとか
排除しようとか、そういう
低次元の同調がないことに驚き、
そのような環境である進学校
選択した意義があったと
15才少女のワタシは
強く思った記憶があります。
個が尊重される学校生活で
とても居心地がよい環境でした。
 
進学した高校は伝統校であり、
もとは男子校が共学になったので、
男子が多かったというのも
影響があったのかと思います。
 
クラス40人中、
女子はクラスに10人ちょっと。
 
だからノリは男子校にちかく、
女子の陰湿さや粘着さは極めて薄かった。
 
いま思えば、成績でふるい分けられる入試で
男女比がこんなにできるのも不思議な事であり、
当時は入試差別はあったのかもしれない。
 
クラスの女子は優秀な女子が多かったと
記憶しています。
高校1年のクラスメイトで
はじめて話しかけた隣の席の女子
その後、東大へと進学しました。 

 

まさに青春な高校生活
  
もうひとつの衝撃は、
自分が井戸の中でゲロゲロ鳴いていた
カエルだったことを知ったこと。
 
公立中学では成績上位な部類だと
勘違いしていましたが、
進学校にはいってしまえば、
平均の平均になります。
 
入学した最初の試験で、
成績優秀者が張り出されますが、
高校には自分よりデキル人なんて
わんさかいるんだな
ということを思い知らされ、
衝撃を受けたことを
思い出します。
 
が、同時に文武両道を
校訓にかかげていた高校でも
あったので、部活も盛んでした。
 
高校生活はとにかく部活に打ち込みました。
高校3年のインターハイ予選の5月まで、
勉強そっちのけで部活に打ち込んでいたワタシ。
 
部活のために学校に行っていたと
いってもいい学校生活でした。
部活では地方大会で優勝するくらいには
そこそこ結果をだしたので、
部活で自己実現というか存在意義を
見いだせていなかったら、
本当の落ちこぼれになるところでした。
 
男女の淡い恋愛もそれなりにありましたし、
部活にささげた高校生活を
後悔しているかと問われれば、
まったく後悔なんてしていない
青春のつまった高校生活でした。
 
いま振り返ってもやはり
高校の学友には恵まれました。 

 

環境を選択すること
 
だからきっと、
偏差値の高い中高一貫校とは、
その校風であり、
学友であり、
文化というのは
県立の進学校と重なる部分があるのかな、
と思われるので
学受験を否定することはしません。
 
先のエッセイで、
部活でみんなから
無視され続けたときに
 
私はもういいの 
女の子と馴染めなくっても 
いいの 
 
私はみんなと離れよう 
 
できるだけ入るのが難しい高校に行こう
 
と別の県の進学校に行くという
最初の選択をしました。
 
苦しかったのは 
選べなかったから 
選べることを知らなかったから
 
と振り返っています。
 
だから、環境を選択できること、
選択できることを知ることって
とっても重要なことだと思うのです。
 
かといってね、
中学受験の場合、
12才のこどもが
その環境を、その進学先を
親が並べた選択肢のなかで
選択できるかを見極めることも
大事なことだとも思うのです。
 
親が選択肢を与えるというのは、
それはもしかしたら
親の一方的な過信であって、
優越であって、強制になりうる
という危険性もあわせもっている
こともありうる。
 
こどもが、自分で「選択」できることを
知ることのうえに、
選択肢の幅」があるのであって、
その先の分岐点は
多々分かれていくのだと思うのです。
 
だから、中学受験では、微妙なさじ加減が必要だと思う。